罪状は白紙、けれど死刑宣告、冤罪にはあらず


 疑わなかった訳ではない。それでも、無知は罪だろう。時間は元に戻りはしないのだ、どんなにそれを望んでも。
 自分は成歩堂に、この笑顔を返してあげることなど出来はしないのだ。
 
「…ごめ……」
 謝罪の言葉は、唇で押し留められた。触れるだけの柔らかな接吻は、成歩堂の体温だけを残して離れていく。
「成歩…。」
「多分…いや、絶対違うよ。」
 成歩堂は、幼子をあやすように響也の背を撫でる。そうして、響也の見慣れた困ったような、寂しそうな笑顔を浮かべる。

「君がそんな顔をするのに、僕が笑えるはずがないじゃないか。」 

 え…?

「大切な人がそんな辛そうな顔をしてるのに、笑えるような男かい? 僕は。」
 自分を見つめて瞬きを繰り返す響也に、成歩堂は後頭部を掻いた。顔を顰めた困った表情に変わる。
「君の知っている僕は、そうなのかい?」
「………時々、酷く意地悪だけどね。」
 僅かに頬を赤らめて答える響也に、(意地悪)をする状況は容易に想像がつくのだろう。今度は嬉しそうに笑い、響也の頬に接吻を落とす。

「だって、こんなに可愛いんだもん。仕方ないさ。」

 背中に回された掌が、シャツの隙間に忍び込む。響也は慌てて成歩堂を腕でもって引き剥がした。
「ちょ、ちょっとアンタ何して…。」
「いや、だから、響也くんが可愛いから仕方な…「こんなとこで、嫌だよ!!」」
 途端お預けを喰らった犬に似た哀れな表情に変わった成歩堂に、響也はドクリと心臓を鳴らす。
「駄目…なのかい?」
 低く囁く声にゾクリと背筋が震える。
 表情は同情を引くように柔らかなくせに、黒い瞳だけが射抜くほど強く、響也を見つめた。熱に潤んだ成歩堂の瞳が求めている。
「愛してる。」
 此処での行為を断れなかった事実に、響也は納得する。こんなに強く求められて断れるはずがない。自分だって彼を求めている。
 身体の芯は震えるほどに、成歩堂が欲しいと思う。

「狡いよ、アンタは本当に。」

 だからね。成歩堂はそう告げて、一度は逃がした身体を捕まえる。そうして、捕まえた相手の手が己の身体を捕まえるのに、満足の笑みを浮かべた。

「響也くんが可愛いから仕方ない。」
 

 
 乱れた服装のまま、響也はソファーに寝転がっていた。全て釦の外されたシャツから見える胸元は、大きく上下する。余韻を楽しむように、それとも肉体の負担を軽減させる為に、響也は瞼を落として荒い呼吸を繰り返していた。
 緩めたネクタイを、窓ガラスに写して手直ししながら、その背後に横たわる響也を見つめ、苦笑いをする。

「また、無理させちゃったね。」
「僕にとっては、また、じゃないけどね…。」

 はぁと息を吐いて、赤くなった頬を隠す為に掌で覆った。気恥ずかしさと、妙に興奮してしまった自分に対して少々戸惑う。
 そのせいで、まともに成歩堂の顔を見る事が出来ない。きっと、にやにやと笑っているに違いないのだ。少々意地の悪い笑顔を浮かべて。
 身体はと聞かれて、響也は大丈夫だと答える。腰が痛むのは、場所とは関係なくいつものことだ。
「じゃあ、一緒に帰ろうか? 僕は、仕度が出来るまで下で待ってるね。」
「うん、わかった。」
 ソファーから身体を起こして、響也はひらと手を振る。それに、成歩堂はにこりと笑った。
「…あのさ、最初はちょっと吃驚したけど、こういう世界もいいね。」
 しかし、なにげない響也の言葉に、成歩堂は先に見せた悲しげな表情を浮かべる。
「言わないでおこうかとも思ったけど、こっちの世界だって、良いことばかりじゃないよ。捏造騒ぎが発覚して、牙琉弁護士は自殺したんだ。」

 瞠目した響也を残して、扉は閉ざされる。

『僕の知っている響也くんの目の前で、服毒自殺をしたんだよ。それから暫くの間、君は見ていられるような状態じゃなかった。』

 取り残されたオフィスで、響也は暫く動けなかった。
自分の知る兄は罪を犯した。けれど、まだ生きている。先程の成歩堂の言い方から察するに、此処の兄が自殺したのは随分と前。ひょっとすると七年前の公判の直ぐ後だったのかもしれない。
 七年という時間が、響也に疑念と覚悟を与えてくれた。ならば、それをすることなく兄を失った自分はどうだったのだろうか。
 大好きな兄を自分の手で追い詰め、殺したようなものでは無かっただろうか。決してそれが推測だけでない事は、成歩堂の言葉が証明している。
 兄は目の前で自殺した…と。

「…っ…。」

 無知は罪じゃない。でも、そこに横たわる史実は、死刑宣告に等しいものだ。


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